「君はその言葉を使い続けているが、私はその言葉の意味が君の考えるとおりだとは思わない」– イニーゴ・モントーヤ、映画『プリンセス・ブライド・ストーリー』より
私が子供の頃、誰かを怒らせるのに確実な方法は、その相手にばい菌をもっていると言うことだった。これは1970年代の中央ペンシルベニアでの話であり、ソーシャルメディアが発達し、世界的な文化変容を受けた現代の8歳児に見られるような、早熟で高度な嘲笑的な会話はもちろん期待できないが、当時は自分たちなりにやっていたのだ(“ばい菌”という表現は1898年頃から使われているのを確認できるが、この余談は別の機会にしよう)。この言葉について興味深いのは、不潔と汚染をあやふやにほのめかしながら、その言葉が正確に何を意味するのかは誰も知らないという点だ。誰かがばい菌をもっていると言えば、その誰かは仲間外れとなり、拒絶と嘲笑の対象となるということだけ理解していれば十分なのだ。かつて私にばい菌をもっていると言ってきた相手(7歳くらいだったと思う)に、自分にはその言葉の意味が分からないし、みんなもよく分かっていないのではないかと尋ねたことがあるが、彼らはその言葉をもっと大きな声で繰り返すだけだった。
こんな話をもち出したのは、多くの異なる問題についても同じような表現が存在するからだ。正確に何を意味するかは分からないが、その言葉が示す内容が何かということよりも、その効果の方がよほど重要なのだ。その効果とは何かを軽蔑の対象として拒絶に値する、つまり、一言でいえば、人間社会にふさわしくないという根本の意味で“不浄”というレッテルを貼ることである。我々はある時計を好ましく思わないとき、その時計がばい菌をもっているとは言わない代わりに、他の言葉を使う。そして、時計についての最も漠然としていながら最も痛烈な言葉は“モールウォッチっぽい”ということだ。