理解を超えた時計がもつ存在意義。
「クロシュ ドゥ カルティエ」は、客観的に見ても不思議な時計だ。名前は「ベル=鐘」を意味し、時計が鐘を横にした状態に見えることからその名がついた。単純明快である。しかし、文字盤上のローマ数字は通常の位置から90°回転しており、XIIのインデックスはリューズに隣接している。もちろん、そこには通常「3」が表示されているが、従来のアナログ腕時計で時間を読み取ってきた人にとっては、慣れるまでに少し時間がかかることだろう。
数字がこの位置にある理由の一つは、時計を横にすると通常のように時間が表示され、置時計として使用することができるからだ。しかし、この時計が元々テーブルクロックとしても使えるように作られたという考えは、いくつかの事実を無視している。まず、ストラップ付きの腕時計であれば、ストラップをキーパー(遊環)に通して下側のラグを直立させるだけで、時計として使用することができるという事実がある。第二に、クロックとして最適化すると腕時計としての実用性が低下するため、補助的な目的以上に本来の目的を果たすことができなくなるということだ。そう考えると、時計はこうあるべきと考えがちな愛好家に、あえて挑戦するためにデザインされたのかもしれないと思えてくる。
カルティエによると、クロシュの形や数字の位置が変わっているのは、もともと腕時計ではなくブローチウォッチとして作られたためだという。本来、ブローチは衣服にピンで留めるもので、12の数字が下に来るようになっており、時間を読み取るために時計を持ち上げたときに数字が正しい位置に来るようになっている。もちろん、それを知った上でも、1921年に腕時計として発表されたとき、なぜカルティエは数字をそのままにしておいたのか、そしてなぜそれ以降も変えずにおいたのかという疑問は残る。
クロシュは、その特異性のためか、1920年代のカルティエにおける他のクラシックなデザインの腕時計に比べて散発的にしか登場していない。タンクのバリエーションは非常に多く、それらは現在もほとんどが存在し、最近でも頻繁に目にすることができる(例えば「タンク ルイ カルティエ」や「タンク サントレ」など)。今年、プリヴェ コレクションの限定モデルとして登場したクロシュは、プリヴェの過去の2つのモデル(アシメトリックとクラッシュ)に続くものだが、これらのモデルもまた、伝統的デザインの申し子とは言えない。
しかしクロシュは、現代の時計愛好家から見れば紛れもなく奇妙な時計であるにもかかわらず、カルティエファンからは非常に大きな熱狂をもって迎えられた。時計の最も基本的な常識に反抗しているかのような時計(上品な反抗行為だが、ペッカリーレザーのドライビンググローブの中指を立てても中指であることに変わりはない)が、古典的な時計デザインへの敬意で知られるファン層になぜ人気があるのか?
クロシュの場合、その奇妙さは欠点ではなく特徴だと思う。時計愛好家というのは、変態的とまでは言わないにしても、少なくともある種その側面をもつ。例えば、ルモントワールやトゥールビヨン。両者とも精密な計時における特定の問題を解決するために作られた、高度に専門化された調整機構である。どちらの場合も、その問題は製造技術や材料科学の進歩により、とっくに解決されていた。つまりどちらも時代遅れなのだ。しかし、ジョージ・ダニエルズが「ルモントワール」(元々はマリンクロノメーターのために発明された定力装置)について書いたように、「この機構が全く必要のないものであることが、その魅力を増大させている」のである。
クロシュは、実用面では非合理的でありながら視覚的には調和がとれていて、それこそが興味深いところなのだ。結局、この時計は読みやすい文字盤デザインを知らない人たちによってデザインされたわけではないのだ。ルイ・カルティエが、1921年における意味と今日での意味を知った上で、意図的にこれを世に送り出したと認めるならば、見方は大きく変わってくる。それは、意図的な(品のある)破壊行為となるのだ。この時計を新鮮な気持ちで見ることができ、時計というもの全体を新たな気持ちで見ることができる。このデザインが成功したことで唯一残念なのは、「Cloche but no cigar(close, but no cigar=惜しい、残念) 」と書けなくなってしまったことだが、私にとっての損失はカルティエの利益ということだ。
人は常に不合理なものを魅力的に感じる、とまでは言わない(私的人間関係でそれをやってしまうと、心理療法士との付き合いが非常に長くなってしまう)。しかし、クロシュにおける形式的な調和と意図的な破壊の組み合わせは、多少なりとも独自の価値を提供している。個人的には、他では得られないと思っている。